歴史

みなとまち・あおもりの誕生をひもとく
<イントロダクション>

「青森」の開港

今からさかのぼること約400年前、江戸時代初めまで、まだ「青森」は歴史上にその名を見せておらず、「外浜(そとのはま)」と呼ばれた地でした。

1625(寛永2)年5月15日、弘前藩第2代藩主津軽信枚(つがるのぶひら)は、江戸幕府より、津軽から江戸へ米を運ぶことなどを目的とした廻船を許可する連署奉書を拝領しました。
そこで信枚は、その拠点となる新しい港町を建設することにしました。これが、「開港の契機」と言われています。
翌年の1626(寛永3)年4月6日、信枚は家臣の森山弥七郎(もりやまやしちろう)に黒印状を下し、地名を「青森」としてまちづくりを命じました。

津軽信牧画像(長勝寺所蔵)

森山弥七郎とは

弘前藩のまちづくり3つの基本方針(①移住促進、②商人船の取引地規制、③町人の身分規定)のうち、「青森への人寄せ(移住促進)」を担当したとされ、「青森」という地名を信枚に提案したのも弥七郎だと言われていますが、森山家に伝わったとみられる記録からは、まちづくりに関わったのは最初の2、3年であったとされています。
油川の浄満寺には、森山弥七郎の供養碑が残されています。

森山弥七郎供養碑
(油川・浄満寺)
「青森派之事」津軽信枚、家臣の森山弥七郎に黒印状を下して青森の町づくりを命じる(「弘前藩庁日記御国日記」1697(元禄10)年4月25日条 弘前市立弘前図書館蔵)

「安潟」伝承

青森が誕生するはるか以前、この地には「安潟(やすかた)」と呼ばれた巨大な湖沼があったと伝えられています。
青森のまちづくりが始まった頃には、この「安潟」は存在せず、江戸時代後期の紀行家、菅江真澄(すがえますみ)が1788年に青森に立ち寄った際、地元の人からその話を聞いています。
伝承にある「安潟」は、次第に縮小し、現在の善知鳥神社にある「うとう沼」に当時の面影を残していると伝えられています。

「津軽図譜」所収「善知鳥祠図」
(百川学庵画・青森県立郷土館蔵)

まちづくり

まちづくりは、およそ45年の歳月と3段階の手順で行われました。

第1段階

まず、港町の中心となる部分、安方町・浜町・大町・米町(現在の本町周辺)のまちづくりに着手しました。
浜町には船問屋、米町には米問屋を配置することが企画され、まさに幕府から許可された「江戸に米を運ぶ」港町ということを意識したまちづくりとなっています。

第2段階

次に、まちの東側を流れる堤川周辺のまちづくりとなります。
この辺りは江戸時代より前から堤川河口部に堤浦と呼ばれる港町があり、宿場町や宗教施設もあったとされ、堤川周辺は再開発のような側面がありました。

第3段階

最後に、現在4つの寺(常光寺、正覚寺、蓮心寺、蓮華寺)がある場所から新町通り周辺が整えられ、現在まで続く、碁盤目状の町ができあがりました。

約340年前の青森の町(「青森町絵図」弘前市立博物館蔵)
※一部加工及び図を逆さまにして使用

そして、1671(寛文11)年、現在の青森県庁の位置に青森屋敷(後の御仮屋)が建てられ、「青森」は完成に至ります。
青森町の東の外れは堤川、南の外れはおおむね駅前通り、北の外れは陸奥湾、そして西の外れははっきりとしませんが、青森駅付近かと思われます。

約200年前の青森湊(「津軽図譜」所収「青森海上泛船船中眺望図」青森県立郷土館蔵 百川学庵画)

青森市のみなとまちの歴史

年表参考「広報あおもり10月号」

1625寛永2年

開港

幕府から津軽・江戸間の廻船が許可される

米を江戸に運ぶことなどを目的に、弘前藩第2代藩主・津軽信枚(のぶひら)が幕府から津軽・江戸間の廻船就航の許可を得ました。これが青森の「開港の契機」とされ、翌年、家臣の森山弥七郎らによる青森のまちづくりにつながりました。

1626寛永3年

まちづくりの始まり

青森市まちづくりの始まり

弘前藩庁が、「青森への人寄せ(移住促進)」など3か条からなるまちづくりの基本方針を示し、まちづくりがスタートしました。

19世紀前半

弘前藩のお抱え絵師・百川学庵(ももかわがくあん)が描いた「津軽図譜」所収「青森海上泛船船中眺望図」からは、江戸時代後期の青森湊の様子が伺えます。

「津軽図譜」所収「青森海上泛船船中眺望図」青森県立郷土館蔵 百川学庵画

青森県庁眺望(青森県立図書館デジタルアーカイブ)

1871明治4年

青森県誕生、青森町が県庁所在地に

廃藩置県で青森県が誕生、青森町が県庁所在地になりました。

1891明治24年

日本鉄道の上野〜青森間全通

日本鉄道上野〜青森間(後の東北本線)が全通しました。しかし鉄道から船に乗り継ぐ場合、駅から遠い浜町桟橋で艀(はしけ)に乗り、沖合に停泊する船に乗っていました。

1906明治39年

青森港が貿易港として開港指定

1892(明治25)年頃から盛んとなっていた青森開港の動きがようやく実を結びました。

1908明治41年

青函連絡船就航

日本鉄道を買収した政府は青森〜函館間に「比羅夫丸」を就航させました。これが青函連絡船の始まりとなりました。

青森築港(青森県所蔵県史編さん資料)

1915大正4年

青森築港起工式

当時の青函連絡船など大きな船舶は青森港に接岸できなかったことから、船の大型化に対応できる港湾設備が必要となり、青森港では本格的な築港工事が始まりました。

1925大正14年

連絡船の貨車搬送開始

青森港の築港完成を受け、連絡船に鉄道貨車を積む
「貨車航送」が実現しました。

青函連絡船貨車航送(青森県所蔵県史編さん資料)

1945昭和20年

青森大空襲で青函連絡船壊滅、中心街は焦土に

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月、8月青森市はアメリカ軍に空襲され、市街地は焦土と化し、青函連絡船も爆撃を受けました。

1986昭和61年

アスパム開館

青森市営魚市場(通称:安方魚市場)が卸町に移転し、
青森漁港も堤川以東に移転。
両施設の跡地の一部に県観光物産館アスパムが完成しました。

建設中のアスパム(竹内義文様撮影・青森県所蔵県史編さん資料)

最後の青函連絡船
(青森県所蔵県史編さん資料)
青森EXPO’88
(青森県所蔵県史編さん資料)

1988昭和63年

青函トンネル開通、青函連絡船は廃止

本県津軽半島と北海道道南を鉄路で結ぶ青函トンネルが開通しました。これにより80年にわたって青森と函館の港を結び、本州と北海道間の鉄道輸送に貢献してきた青函連絡船が廃止されました。

1992平成4年

青森ベイブリッジ暫定開通

鉄道で分断された青森市中心部の東西エリアを結ぶ「青森ベイブリッジ」が暫定開通し、2年後に全面開通。青森駅やベイエリアを見下ろす巨大な橋は、青森のランドマークの1つになっています。

建設中のベイブリッジ(増田浩司様撮影・青森県所蔵県史編さん資料)

2010平成22年

新幹線の新青森駅開業

2010(平成22)年12月、東北新幹線は新青森駅まで開通し全線が開業。これに伴い、青森駅は在来線特急列車の発着が減るなど役割が変わってきました。

2021令和3年

現青森駅(5代目)の開業

1959(昭和34)年建設の4代目駅舎の老朽化により、5大目の駅舎が整備されました。
その後、2024(令和6)年には、JR青森駅東口ビルも完成しました。

現在の青森駅

2025令和7年

青森開港400年

たくさんのイベントが開催される予定です。
ぜひ足を運んでみてください。

2026令和8年

青森まちづくり400年

たくさんのイベントが開催される予定です。
ぜひ足を運んでみてください。

参考資料
  • 青森市小学校副読本
  • 青森市中学校副読本
  • みなとまち・あおもり誕生400年記念冊子(執筆:工藤大輔(青森市民図書館歴史資料室室長)、中園裕(青森県環境生活部県民生活文化課県史担当 総括主幹))(令和5年作成)
  • 広報あおもり令和6年10月号特集ページ
  • 画像:津軽信枚(長勝寺)、黒印状(弘前市立弘前図書館資料)、森山弥七郎石碑(記念冊子)、
       津軽図譜「善知鳥祠図」(津軽デジタル風土記)、青森町絵図(津軽デジタル風土記)、
       津軽図譜「青森海上泛船船中眺望図」(県立郷土館資料)、年表(広報あおもり令和6年10月号)、青森県庁眺望(青森県立図書館資料)